神社仏閣めぐり

寛永20年(1643)10万700石二本松藩の誕生に伴い初代藩主として入府した名君丹羽光重公。
先祖以来継承してきた築城・町割技法を発揮し、10年余りの歳月をかけ、城内・城下(郭内)・城下町の大整備事業に着手。その整備形成は現市街地の原型で大きな差はなく、"ちょっとぶらり"で江戸時代へタイムスリップ。
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二本松神社(にほんまつじんじゃ)
 
二本松神社 光重公が城内の八幡宮と熊野宮を合祀し、総鎮守の御両社として遷宮。本殿には市指定の9代長富公奉納絵馬「源頼政鵺退治の図」と10代長国公献額「丹羽長国奉納歌額」がある。
   
龍泉寺(りゅうせんじ)(曹洞宗)
 
龍泉寺 最古刹(さいこさつ)。観音堂に県指定の秘仏「木造聖観音菩薩立像」を安置、また市指定の絵馬「双松館観桜連中の図」と県内現存で最古の算額がある。
   
大隣寺(だいりんじ)(曹洞宗)
 
大隣寺 丹羽氏の菩提寺。霊廟・墓所をはじめ少年隊供養塔、殉難者群霊塔など境内は荘厳。市指定の「丹羽氏歴代画像」など丹羽氏ゆかりの宝物を今に伝える。参道入り口には、少年隊副隊長二階堂衛守戦死の地碑がある。享年33歳。
   
香泉寺(こうせんじ)(時宗/無住)
 
香泉寺 畠山氏10代義国の墓と位牌があるとされる。境内に県内でも希少な露仏(濡れ仏)で市指定の「銅造阿弥陀如来坐像」を安置。
   
法輪寺(ほうりんじ)(臨済宗/無住)
 
法輪寺 戊辰戦死の少年隊士、小沢幾弥17歳の墓所。明治期に衆議院副議長も務めた清廉高潔な政治家で歌人の安部井磐根が眠る。
   
称念寺(しょうねんじ)(時宗)
 
称念寺 奥州探題職・畠山氏の菩提寺。本堂脇に南北朝末期造営という市指定「浮彫阿弥陀如来三尊来迎供養塔婆」を安置。
   
蓮華寺(れんげじ)(日蓮宗)
 
蓮華寺 戊辰戦死の少年隊士、岡山篤次郎13歳・岩本清次郎17歳の墓所。丹羽氏入府時に植えたとされる市指定のシダレザクラがある。
   
宝泉院(ほうせんいん)(天台宗)
 
宝泉院 本尊の大日如来坐像は金銅仏で、光重公の寄進という。
   
千臂堂(せんぴどう)(千手観音堂)
 
宝泉院 市内現存の歌碑・句碑で最古の市指定「亀谷観音堂の芭蕉句碑」をはじめ、巨大な馬頭尊供養塔、不動明王石像などが立ち並ぶ。
   
少林寺(しょうりんじ)(曹洞宗)
 
宝泉院 元和7(1621)年龍泉寺7世紋達により開山。登城御免格15ヶ寺に列せられた。
   
松岡寺(しょうこうじ)(臨済宗/無住)
 
宝泉院 光重公の招きで京都臨済宗妙心寺の住僧・太嶽祖清により承応2年(1653)開山。戊辰戦争には、西軍の軍務局が置かれた。
   
鏡石寺(きょうせきじ)(天台宗)
 
宝泉院 江戸期に3・4・5代将軍の位牌を安置する御霊屋があったという。堂裏に樹齢400年とする市指定のシダレザクラがある。
   
光現寺(こうげんじ)(曹洞宗)
 
宝泉院 鎌倉期の市指定「木造毘沙門天立像」を安置。山門前の結界石「不許葷酒入山門」は、名僧高泉和尚開山の旧珊瑚寺から移ったもの。
   
真行寺(しんぎようじ)(真宗)
 
宝泉院 少年隊士成田才次郎の突きを受け戦死した、長州兵隊長白井小四郎をねんごろに葬る。
   
顕法寺(けんぽうじ)(真宗)
 
宝泉院 二本松城主加藤明利公の菩提寺、 墓と位牌を守る。戊辰戦死の少年隊士、田中三治16歳の墓所。
   
台運寺(たいうんじ)(浄土宗)
 
宝泉院 2・6・7・9・12代将軍の位牌を安置。山頂に戒石銘碑発案の岩井田昨非が眠る。戊辰戦死の少年隊士、久保豊三郎12歳・奥田午之助15歳・根来梶之助15歳・上崎鉄蔵16歳・中村久次郎17歳の墓所
   
正慶寺(
しようぎようじ)
(真宗)
 
宝泉院 大壇口の激戦で壮絶な戦死を遂げた、少年隊隊長木村銃太郎の墓所享年22歳。
   
善性寺(ぜんしようじ)(浄土宗)
 
宝泉院 県指定「木造阿弥陀如来坐像」、市指定「木造阿弥陀如来立像」「木造釈迦涅繋像」を安置。二合田用水功労の磯村文蔵が眠る。戊辰戦死の少年隊士、大桶勝十郎17歳の墓所。
   
長泉寺(ちょうせんじ)(真言宗)
 
宝泉院 本尊は大日如来。度重なる火災に遭い古仏・什宝を失ったが、山門は古い。境内は整備され古密教寺院を思わせ、石仏・石塔が多い。
   
本久寺(ほんきゅうじ)(顕本法華宗)
 
宝泉院 丹羽氏入府時に植えたとされる市指定のシダしザクラがある。戊辰戦死の少年隊士、遊佐辰弥13歳の墓所。
   
光覚寺(こうがくじ)(真宗)
 
宝泉院 明治初年、洋学塾「暁義社」の教場となり、のち医学講義所が置かれた。
   
遍照尊寺(へんしょうそんじ)(真言宗/無住)
 
宝泉院 光重公が帰依した高野山興山寺住僧・雲堂天岳により寛文12年(1672)開山。法力・霊験の伝説があり、"今弘法大師"と称された。
   



旧町名由来
   
前新丁(まえしんちょう)
  丹羽氏による町割り以前は「坂町」と称していたが、町割りにより亀谷に移されたために、鍛冶町の境から松坂御門までの間が新たに「新丁」と名付けられた。明治時代になってから、町通りに面した区域が「前新丁」と改名された。
   
後新丁(うしろしんちょう)
  丹羽氏による町割り以前は「坂町」と称していたが、町割りにより亀谷に移されたために、鍛冶町の境から松坂御門までの間が新たに「新丁」と名付けられた。明治時代になってから、町通りの裏にあたる区域が「後新丁」と改名された。
   
下馬(げば)
  二本松藩主・丹羽家の菩提寺である大隣寺の境内入口にあたり、参拝や墓参のために当寺を訪れる場合は藩主といえども馬、あるいは駕籠から下乗しなくてはならない場所であった。
   
桜谷(さくらだに)
  鎌倉の谷七郷の例に似せて名付けたという。残りの六谷は西谷、北谷、本町谷、道場谷、北条(放生)谷、亀谷である。桜谷には、丹羽氏の町割りにより足軽長屋や御先手長屋が配置された。
   
鷹匠町(たかじょうまち)
  丹羽氏の町割りにより、主に小役人である鷹匠の屋敷を配置したことから、そのまま町名となった。鷹匠とは、将軍や大名などの鷹を預かって、馴らし、養いそだて、鷹狩りの時に従事した役である。
   
栗ヶ柵(くりがさく)
  この一帯は非常に堅固な地形のため、容易に攻め入ることができなかったといわれている。畠山義継の家臣であった遊佐内蔵介は、この地に館を構えて「栗ヶ柵館」と称した。また、「栗ヶ迫」と記した古書もある。
   
久保丁(くぼちょう)
  「窪地」のなまったものという説がある。明暦元年(1655年)城内に通じる切り通しを開削し、坂の頂上に「久保丁門」を新設した。天保3年(1832年)には、坂の下に大手門(坂下御門)建設に着手し、堂々たる門が完成した。
   
二ノ丁蔵場(にのちょうくらば)
  丹羽氏の町割りにより、松坂門から竹田門までの間を順次一ノ丁から七ノ丁に区割、整備した。ニノ丁には、御備籾蔵(年貢米の収納庫)や玉井組郷蔵(非常救済・貸付用の貯穀倉)などの蔵場が置かれたため、そのまま町名となった。
   
作事屋(さくじや)
  作事とは、藩の建設工事や屋敷の修繕などを行うことであり、これらの指揮・監督には作事奉行があたった。その作事小屋が置かれていたことから、そのまま町名となった。作事屋の区域内には、御かじ屋(大工)の地名などもあった。
   
馬場丁(ばばちょう)
  元文元年(1736年)まで、馬場(乗馬の練習や競馬を行った場所)が置かれていたが、のち鷹匠町へ移し、旧馬場は町奉行預りになっていた。宝暦12年(1762年)に30両で町人へ払い下げられ、町名だけが残った。
   
鉄砲谷(てっぽうだに)
  蒲生領主時代の慶長年間に城を二分し、二人の城代が任命され、東方を松森館と称した。この館には追手門がなかったため南側に移築し、「鉄砲谷」と名付けた。出陣時に用いる鉄砲などを、この門に具備したためと思われる。
   
北条谷(ほうじょうだに)
  八幡宮が城内に遷宮されて以来、毎年8月15日に城の鬼門にあたる智善院城鎮寺で放生会(功徳をつむために生き物を逃がす儀式)を行ったことに由来するといわれる。このほかにも諸説がある。
   
厩丁(うまやちょう)
  藩の厩(馬を飼っておく小屋)が設置されていたことから、そのまま町名となった。当時は厩に付属して、馬場(乗馬の練習や競馬を行った場所)が設置され、さらにこれらの馬の飼育にあたる馬役と称する武士も居住していた。
   
蔵場丁(くらばちょう)
  藩の財政基盤のひとつである御備籾蔵(年貢米の収納庫)や郷蔵(非常救済・貸付用の貯穀倉)が配置されたところから、名付けられた。郷蔵は、渋川組・小浜組のものであった。なお、この一帯の丘陵を蔵場山と称している。
   
御堀端(おほりぱた)
  慶安年間(1648〜1651年)の町割りにより、竹田門の両側に立派な水濠を設置した。この濠は御堀と呼ばれ、その端に位置したことから町名となった。水濠西側には大土手が築かれ、さらに土手の上に杉が植えられていた
   
代官丁(だいかんちょう)
  丹羽氏の町割りにより、代官の屋敷を配置したため町名となった。丹羽氏は領内を片平・郡山・大槻・本宮・糠沢・玉井・杉田・渋川・小浜・針道の10組に分け、それぞれ代官を置き、統治した。天保年間以降は、八丁目にも置いた。
   
御徒士町(おかちまち)
  丹羽氏の町割りにより、主に小役人である徒士の屋敷を配置したことから、そのまま町名となった。江戸時代の武士階級は、侍、徒士(徒)、足軽・中間の三者に大別され、侍は騎乗を許されたが、徒士以下は許されなかった。
   
瓦小屋(かわらごや)
  藩で使用する瓦を製造する小屋が置かれたため、そのまま町名となった。岳温泉は文政7年(1824年)安達太良山・くろがね付近の山崩れのため塩沢に移したが、この時に引湯するための瓦(三尺瓦といった)も焼いたという。
   
大原(おおはら)
  丹羽氏による町割り以前は、二本柳(旧・安達町)まで人家ひとつない広野であったので「大原」、その中心の山を大原山(現・愛宕 山)と称していたという。明治35年から昭和16年まで、大原遊郭として栄えた。
   
陣場(じんば)
  天正13年(1824年)、粟の巣合戦で敗れた畠山勢は、霧ヶ城(現・霞ヶ城公園頂上)に籠城し、父輝宗を失った伊達政宗はこれを攻略するため、この地大原山(現・愛宕山)に陣営を構えたことに由来するという。
   
一番町(いちばんちょう)
  丹羽氏の町割りにより、奥州街道は城下六町(若宮町・松岡町・本町・亀谷町・竹田町・根崎町)を経由することになり、南・北の出入り口である若宮町・根崎町の冠木門外の場所をそれぞれ「一番町」と名付けた。
   
釜場入(かまばいり)
  江戸時代の資料には、「釜場」についての記述が見当たらず、さらに言い伝えもないために、由来は不明である。明治時代になってから、町名として東釜場入・西釜場入・南釜場入・北釜場入が名付けられた。
   
賽ノ神(さいのかみ)
  以前は、西満田と呼称されていたらしい。西満田とは、幸神をまつった場所の意味である幸神前田の略であり、さらに転じて「塞ノ神」になったという。また、塞神(道祖神)があったためという説もある。
   
御免町(ごめんまち)
  塞ノ神があり、賭博御免の境域とされたためという説。市が開設された場所で、品物への課税が免ぜられたためという説。罪人が刑期を終えた後、放免された場所であったためという説。諸説がある。
   
池ノ入(いけのいり)
  遠い昔に池があったという言い伝えから、城から見ると池の場所より奥へ入り込んだ区域にあるため、名付けられたといわれる。丹羽氏による町割りの時は、すでにこの池は見当たらなかった。
   
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