明治19年(1886)5月20日酒造業を営む長沼家の長女として生を受けました。西に万葉で詠まれた秀麗な安達太良の峰々と、東に清冽な阿武隈の流れに広がる肥沃な油井の里、智恵子はそんな自然風土に囲まれて育ちました。
小学校から高等女学校まで首席で通した智恵子が選んだのは日本女子大学校、開放された新しい人間としての生への思いと、美への激しい渇望でした。卒業後は洋画家としての道を進んだが故の高村光太郎との出会い、二人を結びつけたのは愛と信頼にもとづく共棲生活の始まり、大正3年(1914)暮れのことです。
しかし、二人で築こうとした夢の数々は智恵子の病弱に加えて、洋画家としての自信喪失、さらに実家倒産による故郷喪失でした。“わたしはもうじき駄目になる”〜智恵子が智恵子でなくなる時はやがて訪れます。
昭和10年(1935)2月南品川ゼームス坂病院に入院、一進一退の繰り返しの末、13年(1938)10月5日午後9時20分死去、享年53歳。その臨終に立ち会ったのは、光太郎ただ一人でした。
そして、智恵子は死んでよみがえります。入院中に光太郎のためだけに創作した千数百点にも及ぶ遺作「紙絵」、見たもののすべてを魅了してやまない不朽の芸術作品が、詩集『智恵子抄』とともに、今なお二人の純愛を語り続けています。 |