領主 |
区別 |
氏名 |
在職期間 |
畠山 |
城主 |
満泰・(満盛) |
嘉吉年間(1441〜1443) |
〜 |
(天正10年6月本能寺の変 織田信長死去) |
天正14年(1586)7月 |
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持重・政国 |
村国・家泰 |
義氏・義国 |
義継・義綱 |
伊達政宗 |
城主 |
片倉景綱 |
天正14年(1586)7月〜同14年(1586)9月 |
城主 |
伊達成実 |
天正14年(1586)9月〜同18年(1590)6月 |
城代 |
石母田景頼 |
天正18年(1590)6月 |
城代 |
大篠宗綱 |
〜 |
城代 |
柴田宗義 |
同18年(1590)8月 |
蒲生氏郷 |
城代 |
蒲生郷成 |
天正18年(1590)8月 |
(天正18年豊臣秀吉天下統一) |
〜 慶長3年(1598)3月 |
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城代 |
町野繁仍 |
城代 |
町野幸和 |
上杉景勝 |
城代 |
秋山定綱 |
慶長3年(1598)3月 〜 |
(慶長3年8月豊臣秀吉死去)同6年(1601)8月 |
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城代 |
下條定親 |
蒲生秀行
蒲生忠郷 |
城代 |
梅原弥左衛門 |
慶長6年(1601)8月 |
(慶長8年2月江戸幕府成立) |
〜 寛永4年(1627)1月 |
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城代 |
本山安政 |
城代 |
本山安行 |
城代 |
外池良重 |
城代 |
門屋助右衛門 |
城代 |
門屋但馬守 |
<幕府領> |
在番 |
酒井右近太夫 |
寛永4年(1627)1月 |
〜 同4年(1627)2月 |
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在番 |
太田原晴清 |
加藤嘉明
加藤明成 |
城主 |
松下重綱 |
寛永4年(1627)2月〜同4年(1627)10月 |
城主 |
松下長綱 |
寛永4年(1627)10月〜同5年(1628)5月 |
城主 |
加藤明利 |
寛永5年(1628)5月〜同18年(1641)3月 |
代官支配 |
寛永18年(1641)3月〜同20年(1643)5月 |
<幕府領> |
在番 |
相馬義胤 |
寛永20年(1643)5月〜同20年(1643)8月 |
丹羽 |
城主 |

丹羽光重
(にわみつしげ) |
寛永20年(1643)8月〜延宝7年(1679)4月 |
城主 |

丹羽長次
(にわながつぐ) |
延宝7年(1679)4月〜元禄11年(1698)6月 |
城主 |

丹羽長之
(にわながゆき) |
元禄11年(1698)8月〜同13年(1700)12月 |
城主 |

丹羽秀延
(にわひでのぶ) |
元禄14年(1701)2月〜享保13年(1728)5月 |
城主 |

丹羽高寛
(にわたかひろ) |
享保13年(1728)6月〜延享2年(1745)5月 |
城主 |

丹羽高庸
(にわたかつね) |
延享2年(1745)5月〜明和2年(1765)12月 |
城主 |

丹羽長貴
(にわながよし) |
明和3年(1766)1月〜寛政8年(1796)3月 |
城主 |

丹羽長祥
(にわながあきら) |
寛政8年(1796)5月〜文化10年(1813)8月 |
城主 |

丹羽長富
(にわながとみ) |
文化10年(1813)10月〜安政5年(1858)10月 |
城主 |

丹羽長国
(にわながくに) |
安政5年(1858)10月〜明治1年(1868)12月 |
城主 |

丹羽長裕
(にわながひろ) |
明治1年(1868)12月〜明治4年(1871)7月 |
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旧二本松藩戒石銘碑(きゅうにほんまつはんかいせきめいひ)【国指定】 |
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藩士を戒めるため、5代藩主丹羽高寛(たかひろ)公が藩儒学者の岩井田昨非(さくひ)に命じて、藩士通用門前の自然石に寛延(かんえん)2年(1749)刻ませた4句16文字の銘文。教育資料として、また行政の規範としての価値が高く評価され、昭和10年(1935)国史跡に指定。
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二本松少年隊群像(にほんまつしょうねんたいぐんぞう) |
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戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場における少年隊の奮戦姿と、わが子の出陣服を仕立てる母の姿を、日本芸術院会員・名誉市民の彫刻家橋本堅太郎氏がブロンズ制作、平成8年建立。 |
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箕輪門(みのわもん) |
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初代藩主丹羽光重公入府まもなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造した櫓(やぐら)門。主柱材料のカシの巨木は領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたことから、この名がある。 |
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三の丸跡(さんのまるあと) |
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丹羽氏入府まもなく、それまであった侍屋敷を移し、本丸の性格をもった藩主御殿を建造、戊辰戦争で焼失。現在は菊人形のメーン会場。 |
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相生(あいおい)の滝 |
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昭和9年(1934)二合田(にごうだ)用水を引いて造られ、名称は公募による。傍らに、七福神の一つ・弁財天(べんざいてん)を祀った小さな祠(ほこら)が密やかに建つ。 |
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洗心亭(せんしんてい)【県指定】 |
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城内に唯一残る江戸期の建造物で、木造カヤ葺き・寄棟平屋造りの茶亭。当時は「墨絵(すみえ)の御茶屋」といい、光重公がこよなく愛した。一時城外への移築により戊辰戦火を逃れ、明治40年(1907)に再移築。上方の洗心滝に感じ入った丹羽家16代当主が改称。 |
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るり池 |
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光重公時代の造園の姿を今に残す。小規模な回遊式庭園ながら、自然との調和に一体感をかもし出している。 |
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霞ケ城(かすみがじょう)の傘(かさ)マツ【市指定】 |
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別称「八千代(やちよ)の松」ともいわれるアカマツの巨木で、樹齢350年を越す。1本の幹から三方に枝を伸ばした独特の形状は見事。 |
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二本松城跡(にほんまつじょうあと)のイロハカエデ【市指定】 |
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るり池周辺には、庭園整備の時に植えられたという楓の古木が多い。その中でも代表する見事な老木で、樹齢350〜400年。 |
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土井晩翠歌碑(どいばんすいかひ) |
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旧会達製糸会社の社歌を作詞した晩翠が、昭和24年(1949)発表会のため来松。花吹雪の中を散策し、その情景を詠んだ。
「花ふぶき 霞が城のしろあとに 仰ぐあだたら 峯のしら雪」 |
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丹羽一学(にわいちがく)・服部久左衛門(はっとりきゅうざえもん)・丹羽新十郎(にわしんじゅうろう) 自刃の地碑(じじんのちひ) |
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慶応4年(1868)7月29日、戊辰戦争主戦論の実力者家老・一学と副役2名が藩主に代わって戦犯の責任をとり、共々に切腹。
一学の辞世「風に散る 露の我が身は いとわねど 心にかかる 君が行く末」 |
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日影の井戸(ひかげのいど) |
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千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に“日本の三井”といわれる。石積みで、深さ14m余り、底から北方に12m余り横堀りされているという。 |
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二合田用水(にごうだようすい) |
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丹羽氏入府まもなく城防備を目的として、安達太良山麓より尾根伝いに延々18キロもの距離を城内に引水した用水で、幕府には内密だった。のち各村に灌漑用水として、城下町には生活・防火用水として利活用。 |
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智恵子抄詩碑(ちえこしょうしひ) |
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高村光太郎直筆「樹木の二人」「あどけない話」の一節を、伝説が残る大小一対の“牛石”に銅版ではめ込んでいる。周囲の円形野外劇場のイメージは詩人草野心平の発案。 |
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少年隊の丘(しょうねんたいのおか) |
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明治百年の昭和43年(1968)に命名。橋本堅太郎氏の父・日展彫刻家橋本高昇制作のブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」や顕彰碑「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」などが建つ。 |
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搦手門跡(からめてもんあと) |
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裏門、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残る。畠山氏あるいは蒲生氏時代の堀立柱による冠木門(かぶきもん)の柱穴も発掘調査で発見。 |
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本丸直下大石垣(ほんまるちょっかおおいしがき) |
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二本松城で最も古い石垣のひとつ、高さ13mに達する。織田信長・豊臣秀吉時代の城郭石積みのスペシャリスト「穴太衆(あのうしゅう)」により築かれた石垣。 |
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「穴太(あのう)積み」とは
近江国(現在の滋賀県大津市坂本町)穴太に住む城郭石垣技術者集団は穴太衆と呼ばれ、彼らが積んだ石垣を特に「穴太積み」と称しました。織田信長により日本初の本格的城郭の安土城築城をきっかけに一躍天下にその名が知られ豊臣秀吉・徳川家康ら多くの戦国武将からスカウトされ、城郭石垣の石積みに従事しました。
その特徴は、[1]大小様々な自然石を石材として用いる、[2]横積みにするように寝かせて積む、[3]巨石の周りの石のおさまりがよい、[4]勾配はゆるやかで強度はつよいなどです。そして隙間が多いためその明暗から立体感を生み、自然の造形美を見せてくれます。 |
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本丸跡(ほんまるあと) |
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室町時代は奥州探題(おうしゅうたんだい)職・畠山氏の居城。のち会津領時代に蒲生氏、加藤氏により石垣で築造、天守台は造られたが天守閣はできなかった。平成5年から総工費約5億3千万、2年をかけ石垣の全面修築復元工事を完成。 |
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丹羽和左衛門(にわわざえもん)・安部井又之丞(あべいまたのじょう) 自刃の地碑(じじんのちひ) |
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城代丹羽66歳、勘定奉行安部井65歳、燃え上がる御殿を眼下に、共に壮絶な最期を遂げた。丹羽着用の血染めの具足は、資料館にて展示。 |