ちょっとぶらりにほんまつ 城下町探訪



市民の憩いの場、また通年観光地として親しまれている県立霞ヶ城公園は、遠く室町時代から江戸時代終焉まで400有余年の長きにわたり営まれた「二本松城址」。三方が丘陵で囲まれた"馬蹄型城郭"で、自然地形を巧みに利活用した要塞堅固な名城であった。幾百星霜を経た今日でも、各所に往時の姿が偲ばれる貴重な史跡・名勝・天然記念物が数多く点在している。
城下町形成における寺社配置は、仮想敵を想定した防備を考え配置することが基本。丹羽光重公は入府時に城内・城下にあった寺社のうち、龍泉寺を除くすべてを郭外の6町に配置換え。ほとんどを奥州道中に取り付く狭い脇道の最奥部である観音丘陵麓に移設。
多くの寺社には、にほんまつの歴史を物語る数々の貴重な遺産が所蔵されている。
寛永20年(1643)10万700石二本松藩の誕生に伴い初代藩主として入府した名君丹羽光重公。
先祖以来継承してきた築城・町割技法を発揮し、10年余りの歳月をかけ、城内・城下(郭内)・城下町の大整備事業に着手。その整備形成は現市街地の原型で大きな差はなく、"ちょっとぶらり"で江戸時代へタイムスリップ。
城下町形成における寺社配置は、仮想敵を想定した防備を考え配置することが基本。丹羽光重公は入府時に城内・城下にあった寺社のうち、龍泉寺を除くすべてを郭外の6町に配置換え。ほとんどを奥州道中に取り付く狭い脇道の最奥部である観音丘陵麓に移設。
多くの寺社には、にほんまつの歴史を物語る数々の貴重な遺産が所蔵されている。
江戸城内で諸大名が控える部屋=詰所には家格の高い順に8ランクあり、丹羽家は島津・伊達・細川家らと同席できるナンバー2の「大広間」詰め。戦国時代に123万石の筆頭大名であった格式を幕府が認めていたが故のことだった。
上屋敷は、明暦の大火(1657)前が桜田、後は永田町といずれも江戸城に近接したエリアに位置。永田町上屋敷跡地は、現在の総理官邸敷地内に及ぶ。
丹羽二本松藩10万700石の領域は、城下6町+安達郡1円69ヶ村+安積郡41ヶ村。 現在の二本松市全域+本宮市+大玉村+郡山市の3分の2、そして猪苗代湖の一部を含む広範囲に及んでいた。全国大名石高ランクでみると、260有藩の内、10万石以下は約80%の210数藩あり、決して下位の藩ではなく、むしろ上位の藩といえる。
 



悠々城址内。さくら・つつじ・もみじ・・・四季折々の庭園 霞ケ城公園が歴史の面影を映す
 

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旧二本松藩戒石銘碑[国指定]
  藩士の戒めとするため、5代藩主高寛公が藩儒学者岩井田昨非に命じて、通用門前の自然石に刻ませた4句16文字の銘文。句は、教育資料としてまた行政の規範として価値が高いため、昭和10年に国指定。
   
二本松少年隊群像
  戊辰戦争激戦地・大壇口戦争の少年隊の奮戦姿と、わが子の出陣服を仕立てる母の姿を、日本芸術院会員・名誉市民の彫刻家橋本堅太郎氏がブロンズ制作。平成8年建立。
   
箕輪門
  光重公入府直後、御殿と共に最初に建造した櫓門。材料のカシの巨木は領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたため、この名がある。
   
二本松城跡箕輪門のアカマツ[市指定]
  箕輪門北側の石垣上に並ぶアカマツの古木郡。城歴の生き証人として樹齢350年を越える。
   
るり池
  光重公時代の造園の姿を今に残す。布袋(ほてい)滝との組み合わせが小規模な回遊式庭園ながら、自然との一体感をかもし出している。
   
洗心亭[市指定]
  城址内に唯一残る江戸期の建造物で、木造カヤ葺き・寄棟平屋造りの茶亭。当時は「墨絵の御茶屋」といい、光重公がこよなく愛した。
   
霞ヶ城の傘マツ[市指定]
  別称「八千代の松」ともいわれるアカマツの巨木で、樹齢300年を越す。
   
二本松城跡のイロハカエデ[市指定]
  るり池周辺の庭園整備の時に植えられたという見事な老木で、樹齢350〜400年。
   
土井晩翠歌碑
  旧会達製糸会社の社歌を作詞した晩翠は、昭和24年に発表会のため来松。花吹雪の中を散策し、その情景を詠んだ。昭和31年建立。
   
二合田用水
  光重公入府まもなく、城防備を目的に安達太良山麓より延々約18キロもの距離を城内各所に引水した用水。幕府へは内密だった。
   
智恵子抄詩碑
  「樹下の二人」「あどけない話」の一節を、伝説が残る大小一対の「牛石」に高村光太郎直筆の銅板ではめ込んでいる。周辺の円形野外劇場のイメージは詩人草野心平の提案。
   
少年隊の丘
  明治100年の昭和43年命名。橋本堅太郎氏の父・彫刻家橋本高昇制作のブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」や顕彰碑等が立つ。
   
搦手門跡
  裏門。今は門台石垣と門柱礎石のみが残る。
   
本丸跡
  室町時代は奥州探題職・畠山氏の居城。のち会津領時代に蒲生氏、加藤氏により石垣積みで築造。平成5年から約5億3千万、2年かけ石垣の全面修築復元工事が行われた。
   
日影の井戸
  千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に日本の三井戸といわれる。
   

山田 脩(やまだおさむ)
  戊辰戦後の明治6年に二本松製糸会社を創設、のち双松館(そうしょうかん)と名を変えたが、一貫した山田の製糸業経営は、地方の発展と国家に貢献。
   
丹羽一学(にわいちがく)・服部久左衛門(はっとりきゅうざえもん)・丹羽新十郎(にわしんじゅうろう) 自刃の地碑(じしんのちひ)
  主戦論の実力者家老一学と副役の2名が藩主長国公に代わって戦犯の責任をとり、共々に切腹。一学の辞世「風に散る 露の我が身はいとわねど 心にかかる 君が行く末」
   
安倍井又之丞(あべいまたのじょう)・丹羽和左衛門(にわわざえもん) 自刃の地碑
  安倍井65歳・丹羽66歳、燃え上がる城を眼下に、共に壮絶な最期を遂げた。丹羽着用の血染めの具足は、資料館で展示中。
   
成田才次郎(なりたさいじろう)戦死の地碑
  重傷の身で城中へ向かう途中に長州兵と遭遇。一瞬の油断をみて隊長白井小四郎を突き殺した直後、その場で絶命。享年14歳。
   

霞ケ城公園桜まつり
丹羽氏10万700石の城址で、約1,800本余りの桜が見事である。
4月10日〜5月5日まで「桜まつり」が開催される。

二本松の菊人形
毎年10月1日から11月23日まで開催。
県立霞ヶ城公園に菊と紅葉が華麗に調和する。昭和30年から始まり、回を重ねるごとにスケールと豪華さを増し、今では日本最大の菊の祭典と定評を得るまでになり、同時に二本松菊花品評大会・福島県菊花品評大会も開かれ、毎年多くの観菊客が訪れる。


観音丘陵地内にある文学碑
 
東野辺薫(とうのべかおる) 文学碑
市内若宮に出生、本名野辺慎一。昭和18年に芥川賞受賞作品『和紙』の生原稿の一節を、浮彫銅板に仕立て自然石にはめ込む。
 
中山義秀(なかやまぎしゅう) 文学碑
二本松ゆかりの「孤高の文士」、昭和13年『厚物咲』で芥川賞受賞。生誕100年を記念し、直筆の色紙を露出自然石に刻む。
 
観音丘陵(かんのんきゅうりょう)の万葉歌碑
最古の歌集『万葉集』にある「あだたら」を詠んだ3首のうちの1首を、巨大な露頭花崗岩に銅板仕立てではめ込む。
 


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神社仏閣巡り(西)。二本松少年隊が眠る丹羽家の菩提寺を訪ねて藩政の時代を偲ぶ
 

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二本松神社(にほんまつじんじゃ)
 
光重公が城内の八幡宮と熊野宮を合祀し、総鎮守の御両社として遷宮。本殿には市指定の9代長富公奉納絵馬「源頼政鵺退治の図」と10代長国公献額「丹羽長国奉納歌額」がある。
   
龍泉寺(りゅうせんじ)(曹洞宗)
 
最古刹(さいこさつ)。観音堂に県指定の秘仏「木造聖観音菩薩立像」を安置、また市指定の絵馬「双松館観桜連中の図」と県内現存で最古の算額がある。
   
大隣寺(だいりんじ)(曹洞宗)
 
丹羽氏の菩提寺。霊廟・墓所をはじめ少年隊供養塔、殉難者群霊塔など境内は荘厳。市指定の「丹羽氏歴代画像」など丹羽氏ゆかりの宝物を今に伝える。参道入り口には、少年隊副隊長二階堂衛守戦士の地碑がある。享年33歳。
   
香泉寺(こうせんじ)(時宗/無住)
 
畠山氏10代義国の墓と位牌があるとされる。境内に県内でも希少な露仏(濡れ仏)で市指定の「銅造阿弥陀如来坐像」を安置。
   
法輪寺(ほうりんじ)(臨済宗/無住)
 
戊辰戦死の少年隊士、小沢幾弥17歳の墓所。明治期に衆議院副議長も務めた清廉高潔な政治家で歌人の安部井磐根が眠る。
   
称念寺(しょうねんじ)(時宗)
 
奥州探題職・畠山氏の菩提寺。本堂脇に南北朝末期造営という市指定「浮彫阿弥陀如来三尊来迎供養塔婆」を安置。
   
蓮華寺(れんげじ)(日蓮宗)
 
戊辰戦死の少年隊士、岡山篤次郎13歳・岩本清次郎17歳の墓所。丹羽氏入府時に植えたとされる市指定のシダレザクラがある。
   
宝泉院(ほうせんいん)(天台宗)
 
本尊の大日如来坐像は金銅仏で、光重公の寄進という。
   

 
安達太良カントリークラブ
 
岳温泉鏡ヶ池

二本松の提灯祭り
毎年10月4日から6日の3日間開催。二本松神社の例大祭。日本三大提灯まつりのひとつとされ、7台の黄金塗りの太鼓台が、笛・鉦・大太鼓・小太鼓の囃子もにぎやかに市内を練り歩く。夜は1台に約300個の紅提灯がつけられ、豪華絢爛に秋の夜を彩る。


旧町名由来
   
前新丁(まえしんちょう)
  丹羽氏による町割り以前は「坂町」と称していたが、町割りにより亀谷に移されたために、鍛冶町の境から松坂御門までの間が新たに「新丁」と名付けられた。明治時代になってから、町通りに面した区域が「前新丁」と改名された。
   
後新丁(うしろしんちょう)
  丹羽氏による町割り以前は「坂町」と称していたが、町割りにより亀谷に移されたために、鍛冶町の境から松坂御門までの間が新たに「新丁」と名付けられた。明治時代になってから、町通りの裏にあたる区域が「後新丁」と改名された。
   
下馬(げば)
  二本松藩主・丹羽家の菩提寺である大隣寺の境内入口にあたり、参拝や墓参のために当寺を訪れる場合は藩主といえども馬、あるいは駕籠から下乗しなくてはならない場所であった。
   
桜谷(さくらだに)
  鎌倉の谷七郷の例に似せて名付けたという。残りの六谷は西谷、北谷、本町谷、道場谷、北条(放生)谷、亀谷である。桜谷には、丹羽氏の町割りにより足軽長屋や御先手長屋が配置された。
   
鷹匠町(たかじょうまち)
  丹羽氏の町割りにより、主に小役人である鷹匠の屋敷を配置したことから、そのまま町名となった。鷹匠とは、将軍や大名などの鷹を預かって、馴らし、養いそだて、鷹狩りの時に従事した役である。
   
栗ヶ柵(くりがさく)
  この一帯は非常に堅固な地形のため、容易に攻め入ることができなかったといわれている。畠山義継の家臣であった遊佐内蔵介は、この地に館を構えて「栗ヶ柵館」と称した。また、「栗ヶ迫」と記した古書もある。
   
久保丁(くぼちょう)
  「窪地」のなまったものという説がある。明暦元年(1655年)城内に通じる切り通しを開削し、坂の頂上に「久保丁門」を新設した。天保3年(1832年)には、坂の下に大手門(坂下御門)建設に着手し、堂々たる門が完成した。
   
二ノ丁蔵場(にのちょうくらば)
  丹羽氏の町割りにより、松坂門から竹田門までの間を順次一ノ丁から七ノ丁に区割、整備した。ニノ丁には、御備籾蔵(年貢米の収納庫)や玉井組郷蔵(非常救済・貸付用の貯穀倉)などの蔵場が置かれたため、そのまま町名となった。
   
作事屋(さくじや)
  作事とは、藩の建設工事や屋敷の修繕などを行うことであり、これらの指揮・監督には作事奉行があたった。その作事小屋が置かれていたことから、そのまま町名となった。作事屋の区域内には、御かじ屋(大工)の地名などもあった。
   
馬場丁(ばばちょう)
  元文元年(1736年)まで、馬場(乗馬の練習や競馬を行った場所)が置かれていたが、のち鷹匠町へ移し、旧馬場は町奉行預りになっていた。宝暦12年(1762年)に30両で町人へ払い下げられ、町名だけが残った。
   
鉄砲谷(てっぽうだに)
  蒲生領主時代の慶長年間に城を二分し、二人の城代が任命され、東方を松森館と称した。この館には追手門がなかったため南側に移築し、「鉄砲谷」と名付けた。出陣時に用いる鉄砲などを、この門に具備したためと思われる。
   
北条谷(ほうじょうだに)
  八幡宮が城内に遷宮されて以来、毎年8月15日に城の鬼門にあたる智善院城鎮寺で放生会(功徳をつむために生き物を逃がす儀式)を行ったことに由来するといわれる。このほかにも諸説がある。
   


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二本松御城郭全図と現代図。城郭全図を片手に「ちょっとぶらり」・・・江戸時代に想いを馳せる
 
「二本松御城郭全図(にほんまつごじょうかくぜんず)
(旧二本松藩主・丹羽家所蔵)
城内を中心として、御殿・蔵・馬場・小屋などの各施設をはじめ、寺院・神社の位置、及び主要道路・町名などがほぼ詳細に描かれている。
江戸時代後期から幕末期頃の絵図であるが、丹羽光重公入府直後に大整備した当時とあまり変わっていない。現在の市街地と比べても基本的には大差はなく、350年ほど前の“まちづくり”が今でも脈々と生き続いている。

「二本松現代図」

この地図は、約360年前に町割りされた道に現在の道路を重ね合わせたもので、尺度は二本松御城郭全図に合わせて作成した。記載の町名は現在のもの。



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神社仏閣巡り(東)。遥かなる古刹の寺を訪ねて巡り歴史が蘇えってくる
 

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鏡石寺(きょうせきじ)(天台宗)
 
江戸期に3・4・5代将軍の位牌を安置する御霊屋があったという。本堂裏に樹齢400年とする市指定のシダレザクラがある。
   
千臂堂(せんぴどう)(千手観音堂)
 
市内現存の歌碑・句碑で最古の市指定「亀谷観音堂の芭蕉句碑」をはじめ、巨大な馬頭尊供養塔、不動明王石像などが立ち並ぶ。
   
光現寺(こうげんじ)(曹洞宗)
 
鎌倉期の市指定「木造毘沙門天立像」を安置。山門前の結界石「不許葷酒入山門」は、名僧高泉和尚開山の旧珊瑚寺から移ったもの。
   
真行寺(しんぎょうじ)(真宗)
 
少年隊士成田才次郎の突きを受け戦死した、長州兵隊長白井小四郎をねんごろに葬る。
   
顕法寺(けんぽうじ)(真宗)
 
二本松城主加藤明利公の菩提寺、墓と位牌を守る。戊辰戦死の少年隊士、田中三治16歳の墓所。
   
台運寺(たいうんじ)(曹洞宗)
 
2・6・7・9・12代将軍の位牌を安置。山頂に戒石銘碑発案の岩井田昨非が眠る。戊辰戦死の少年隊士、久保豊三郎12歳・奥田午之助15歳・根来梶之助15歳・上崎鉄蔵16歳・中村久次郎17歳の墓所。
   
正慶寺(しょうぎょうじ)(真宗)
 
大壇口の激戦で壮絶な戦死を遂げた、少年隊隊長木村銃太郎の墓所。享年22歳。
   
善性寺(ぜんしょうじ)(浄土宗)
 
県指定「木造阿弥陀如来坐像」、市指定「木造阿弥陀如来立像」「木造釈迦涅槃像」を安置。二合田用水功労の磯村文蔵が眠る。戊辰戦死の少年隊士、大桶勝十郎17歳の墓所。
   
本久寺(ほんきゅうじ)(顕本法華宗)
 
丹羽氏入府時に植えたとされる市指定のシダレザクラがある。戊辰戦死の少年隊士、遊佐辰弥13歳の墓所。
   

桜の見どころ
   
蓮華寺
 
シダレザクラ推定樹齢約350年。本堂に向かって右手の石垣上に立っている。根元周囲4.3m、目通り幹囲3.7m、樹高約12mの古木で昭和51年に市天然記念物に指定されている。
   
鏡石寺
 
本堂裏には、推定樹齢約400年といわれるシダレザクラがあり、高さ10m、根元周囲4.4m、目通り幹囲3.2m、枝張り二重の見事な重層樹形で平成元年市天然記念物に指定されている。
   
本久寺
 
慶安2年(1649)日相和尚が開山。本堂南東に大きく傾斜した土手際に寛永20年(1643)植樹と伝える市指定天然記念物シダレザクラの古木。
   

旧町名由来
   
厩丁(うまやちょう)
  藩の厩(馬を飼っておく小屋)が設置されていたことから、そのまま町名となった。当時は厩に付属して、馬場(乗馬の練習や競馬を行った場所)が設置され、さらにこれらの馬の飼育にあたる馬役と称する武士も居住していた。
   
蔵場丁(くらばちょう)
  藩の財政基盤のひとつである御備籾蔵(年貢米の収納庫)や郷蔵(非常救済・貸付用の貯殻倉)が配置されたところから、名付けられた。郷蔵は、渋川組・小浜組のものであった。なお、この一帯の丘陵を蔵場山と称している。
   
御堀端(おほりばた)
  慶安年間(1648〜1651年)の町割りにより、竹田門の両側に立派な水濠を設置した。この濠は御堀と呼ばれ、その端に位置したことから町名となった。水濠西側には大土手が築かれ、さらに土手の上に杉が植えられていた。
   
代官丁(だいかんちょう)
  丹羽氏の町割により、代官の屋敷を配置したため町名となった。丹羽氏は領内を片平・郡山・大槻・本宮・糠沢・玉井・杉田・渋川・小浜・針道の10組に分け、それぞれ代官を置き、統治した。天保年間以降は、八丁目にも置いた。
   
御徒士町(おかちまち)
  丹羽氏の町割りにより、主に小役人である徒士の屋敷を配置したことから、そのまま町名となった。江戸時代の武士階級は、侍、徒士(徒)、足軽・中間の三者に大別され、侍は騎乗を許されたが、徒士以下は許されなかった。
   
瓦小屋(かわらごや)
  藩で使用する瓦を製造する小屋が置かれたため、そのまま町名となった。岳温泉は文政7年(1824年)安達太良山・くろがね付近の山崩れのため塩沢に移したが、この時に引湯するための瓦(三尺瓦といった)も焼いたという。
   
大原(おおはら)
  丹羽氏による町割り以前は、二本柳(現・安達町)まで人家ひとつない広野であったので「大原」、その中心の山を大原山(現・愛宕山)と称していたという。明治35年から昭和16年まで、大原遊郭として栄えた。
   
陣場(じんば)
  天正13年(1585年)、粟の巣合戦で敗れた畠山勢は、霧ヶ城(現・霞ヶ城公園頂上)に籠城し、父輝宗を失った伊達政宗はこれを攻略するため、この地大原山(現・愛宕山)に陣営を構えたことに由来するという。
   
一番町(いちばんちょう)
  丹羽氏の町割りにより、奥州街道は城下六町(若宮町・松岡町・本町・亀谷町・竹田町・根崎町)を経由することになり、南・北の出入り口である若宮町・根崎町の冠木門外の場所をそれぞれ「一番町」と名付けた。
   
釜場入(かまばいり)
  江戸時代の資料には、「釜場」についての記述が見当たらず、さらに言い伝えもないために、由来は不明である。明治時代になってから、町名として東釜場入・西釜場入・南釜場入・北釜場入が名付けられた。
   
賽ノ神(さいのかみ)
  以前は、西満田と呼称されていたらしい。西満田とは、幸神をまつった場所の意味である幸神前田の略であり、さらに転じて「塞ノ神」になったという。また、塞神(道祖神)があったためという説もある。
   
御免町(ごめんまち)
  塞ノ神があり、賭博御免の境域とされたためという説。市が開設された場所で、品物への課税が免ぜられたためという説。罪人が刑期を終えた後、放免された場所であったためという説。諸説がある。
   
池ノ入(いけのいり)
  遠い昔に池があったという言い伝えから、城から見ると池の場所より奥へ入り込んだ区域にあるため、名付けられたといわれる。丹羽氏による町割りの時は、すでにこの池は見当たらなかった。
   


 
安達ヶ原ふるさと村
 
野生の王国 東北サファリーパーク
この地域は、有名な安達ヶ原の鬼ばば伝説の地であり、詩人であり紙絵画家でもある有名な智恵子のふる里でもある。緑豊かな自然の中、語り継がれる伝説など、魅力の「安達ヶ原ふるさと村」は見所いっぱいの観光スポットとなっている。   岳温泉の北東にある野生の王国には、ライオン・トラ・象・キリンなど200種約1,000頭のアフリカ動物を放し飼いにしている。マイカーで猛獣の中を探検すれば、サファリ気分が楽しめ、ホワイトライオンやホワイトタイガーなど、ホワイトアニマルは必見。迫力満点のナイトサファリも楽しめる。(期間限定)

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二本松藩丹羽家あれこれ。こんなに広い丹羽二本松藩領域そして江戸屋敷・格式・身分は・・・
 
江戸城大絵図(二本松市歴史資料館所蔵)
文政11年(1828)、江戸日本橋の書林(書店)須原屋から出版された切絵図で、各大名の上屋敷・中屋敷・下屋敷や旗本屋敷、寺院・神社、町屋など江戸市中が克明に描かれている。
丹羽家の上屋敷は外堀の中、江戸城に近接した永田町地内に与えられ、その格式が高かったことを物語っている。
現在の場所でいうと、発掘調査結果から総理官邸敷地内に入り込んでいたことがあきらかになっている。

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◆旧総理官邸斜め向かいの歩道に下記標注がある。
茱萸坂: この坂を茱萸坂(ぐみざか)という。またの名を番付坂ともいう。「新編江戸志」には丹羽家の裏門から見通すことができ、内藤紀伊守(ないとうきいのかみ)、本多伊勢守(ほんだいせのかみ)の間をぬけて九鬼長門守(くきながとのかみ)の屋敷前へ出る小坂で“両側にぐみの木ありし故の名なり”とかかれている。また「東京名所図会」には、“番付坂・茱萸坂の一名にして昔時山王(せきじさんのう)(日枝(ひえ)神社)の祭礼には必ず此の所に花車の番付札ありて、其行列をあらためしよりいう”とかかれている。

丹羽家の江戸屋敷について
江戸城内で諸大名が控える部屋=詰所には家格の高い順に8ランクあり、丹羽家は島津・伊達・細川家らと同席できるナンバー2の「大広間」詰め。戦国時代に123万石の筆頭大名であった格式を幕府が認めていたが故のことだった。上屋敷は、明暦の大火(1657)前が桜田、後は永田町といずれも江戸城に近接したエリアに位置。永田町上屋敷跡地は、現在の総理官邸敷地内に及ぶ。
 
大名屋敷
江戸時代、江戸に参勤する大名のために与えられた武家屋敷・宅地をいう。江戸が天下の総城下町として発展するにつれて拡大された。明暦3年(1657)、明暦の大火による500余の大名屋敷が焼失後、避難場所として下屋敷が設けれられたため、各大名は本邸の上屋敷のほかに中屋敷・下屋敷として2ないし5の屋敷を有するようになる。その中で中・下屋敷は府内から外縁へと次第に移された。その配置なども幕藩体制支配を示すようになっていた。
 
丹羽家の江戸屋敷
明暦の大火前 ・・・・・ 上屋敷 桜田
    蔵屋敷 八町堀
明暦の大火後 ・・・・・ 上屋敷 永田町
    下屋敷 青山長者丸
    蔵屋敷 八町堀
 


 
二本松藩主・丹羽家家紋
直違紋(すじかいもん)
(通称:違い棒)
 
光重公自画自賛肖像


丹羽家の格式(家柄・身分)について

丹羽二本松藩の石高ランク
※大名(藩)石高別内訳[慶応2年時]
石高 藩数 割合(%) 備考
1〜5万石
166
62
5〜10万石
46
17
10〜20万石
32
12
二本松藩10万700石
20〜50万石
15
7
50万石以上
7
2
266
100
 
丹羽家の江戸城中大名詰所
※丹羽→大広間詰め[慶応3年時]
ランク 詰所名 主な大名
1
大廊下(おおろうか)
上席:御三家(水戸・紀州・尾張)・御三卿
下席:金沢前田102.2万石・福岡黒田52万石など
2
大広間(おおひろま)
鹿児島島津77万石・仙台伊達62.5万石・熊本細川54万石など
3
溜間(たまりのま)
会津松平23万石・彦根井伊23万石など

4

帝鑑間(ていかんのま)
5
柳間(やなぎのま)
6
雁間(がんのま)
7
菊間(きくのま)
8
無席
 
丹羽二本松藩の領域について
丹羽二本松藩10万700石の領域は、城下6町+安達郡一円69ヶ村+安積郡41ヶ村。現在の二本松市全域+安達郡全町村+郡山市3分の2、そして猪苗代湖の一部を含む広範囲に及んでいた。
全国大名石高ランクでみると、260有藩の内、10万石以下は約80%の210数藩あり、決して下位の藩でなく、むしろ上位の藩といえる 。
 
寛永20年(1643)7月→天保4年(1833)1月
※城下町6町+110ヶ村
  • 安達郡一円 69ヶ村 ※現・二本松市+安達郡各町村
  • 安積郡の内 41ヶ村
    [片平組]
    11ヶ村
    / 片平村・河内村・夏出村・長橋村・富田村・早稲原村・堀内村・前田沢村・安子島村・上伊豆島村・下伊豆島村
    [郡山村]
    14ヶ村
    / 郡山村・小原田村・日出山村・笹川村・久保田村・福原村・日和田村・高倉村・八丁目村・梅沢村・八山田村・横塚村・笹原村・荒井村
    [大槻組]
    16ヶ村 
    / 大槻村・多田野村・山口村・大谷村・八幡村・駒屋村・川田村・成田村・鍋山村・富田村・下守屋村・浜路村・横沢村・舘村・船津村・安佐野村
 
天保4年(1833)2月→明治元年(1868)8月
※城下町6町+110ヶ村
  • 安達郡一円 69ヶ村
    ※二本松市+本宮市+大玉村
  • 安積郡の内 36ヶ村
    ※大槻組太字5ヶ村は抜ける
  • 信夫郡の内 5ヶ村
    ※[八丁目組]八丁目村・天明根村・皷岡村・上水原村・下水原村
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