国史跡二本松城跡

二本松城跡 範囲および周辺図

二本松城跡 範囲および周辺図

二本松城跡 指定範囲図

二本松城跡 指定範囲図

「二本松城大手門跡」指定範囲図

「二本松城大手門跡」指定範囲図

指定概要 [指定年月日]平成19年7月26日

1.名称
二本松城跡(にほんまつじょうあと)
2.所在地
[1]二本松城跡二本松市郭内三丁目・四丁目地内
[2]二本松城大手門跡 二本松市本町一丁目地内
3.対象面積
[1]二本松城跡 166,537.02㎡
[2]二本松城大手門跡 1,829.38㎡
合 計 168,366.40㎡ (※内.県有地 1,581.00㎡)
4.指定範囲
別紙.図面のとおリ
5.遺跡の概要
二本松城は、阿武隈山系の裾野に位置する標高345mの白旗ヶ峰を中心として、南 ・西・北を丘陵で囲まれ、東方がやや開□する自然の要害地形を利用して作られた中世及び近世の城跡である。
二本松城跡の歴史は、古く畠山満泰が応永21年(1414)この地 に居を構えたとされる。天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城として城代が置かれた。
その後、松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、以後、二本松藩の居城として明治維新に至った。
二本松市教育委員会の調査によって、本丸直下の平場で畠山氏時代の火災廃棄土杭や、近世会津支城時代の石垣が見つかっ た。また、中世城館から近世城館への大規模な改修が寛永4年(1627)~ 20年の加藤氏時代に行われていたことも判明した。
二本松城跡は東北地万を代表する近世城郭であり、中世城館から近世城郭への変貌もよくわかり、中世・近世の政治及び築城技術を知るうえで重要である。

二本松城大手門跡

大手門跡は、市有地に残存する石垣の部分のみを対象として、昭和51年7月21日に市史跡「坂下門跡」として指定されている。指定名称の由来については、久保丁(久保町)坂の下万部に位置していたため、この俗称でよばれていたことによる。

現在、門跡の外側は商家など住宅地が隣接し、内側は市立図書館・歴史資料館をはじめ、安達広域行政組合・二本松商工会議所など公的機関施設が立ち並ぶ密集地となっている。

築造とその様相

築造に至る経緯

寛永20年(1643)8月、10万700石の新生二本松藩誕生に伴い、白川(河)藩主であった丹羽家3代・光重が国替えを命じられ入府した。着任した当時の二本松城の周囲は、武家屋敷と町屋・寺社などが混在する雑居状態にあり、防御施設として無防備の状況にあった。

そのため、最重要防御施設である城内を核とし、武家屋敷そのため、最重要防御施設である城内を核とし、武家屋敷区 集合区域=郭内、そして町屋・寺社などで構成する城下町=郭外に完全分離する大整備を正保3年(1646)から着手し、約10年をかけて一応の完成をみている。

特に、郭内を往来していた奥州道中(街道)を城下町に付け替えるとともに、郭内に入る各要所には4つの城門を新設または改修を施した。松坂門・池ノ入八門・竹田門、そして奥州道中に面し本来は大手口にあたる久保丁入口の坂下門である。しかし、当時は藩財政の事情もあって、すべてが冠木門形式であったことが諸絵図から読みとれる。

光重は、城郭の顔とされる大手門だけは石垣上に二階櫓を具備した重厚な櫓門を望んだといわれ、以来歴代藩主の宿望とされてきた。これが叶ったのは光重没後130年を経た、第9代藩主・丹羽長富治世の天保3年 (1832)のことである。

史料・記録類

大手門築造に関係する古文書として、幕府に提出された大手門工事願書の控えの写しとみられる一紙文書が残されている(図1)。

大手門工事願書
(図1)大手門工事願書

「私在所陸奥国二本松城惣郭南之方通路門之外、町家江出口門之左右石垣新規築立申度段、去々辰年六月奉願候処、願之通可申付旨 御下知有之難有、追々普請而落成仕候然所、右場所之儀、全当時惣郭之大手門入ロニ而締第一之場所二御座侯処、如何二茂手薄二御座候間、締之為新規築立侯、石垣上 江絵図面掛紙之通多門取建申度奉存候、此段奉願候而茂苦ケ間敷哉、御内慮 奉伺候以上 六月二日  丹羽左京大夫」

(『二本松市史』第4巻所収「紺野家文書」)

この文書には年号が記されていないが「長富公記」に、「天保3年6月公許を得、新たに石壁塹濠を久保町口に築造す。天保5年11月新たに多門を城下久保町口に築く。」とあり、天保3年6月に大手門普請に着工し、石垣と堀の築造に始まり、同5年11月櫓門を築いたことがわかる。

(『二本松藩史』所収)

また、『二本松城沿革誌』には「天資俊敏、機略あり、名誉慾識熾なりし丹羽備中貴明執政の職に上り、やがてその上首となりて連年大土工を起し…(略)…更に大手御門、久保町御門、竹田御門の修改築となり… (略)…中にも大手御門の建築は、その石塁、その城浬その橋梁、その楼門、悉く善美を尽くし、総欅造りの楼門の扉は厚さ八寸以上あり、砲丸に堪うべく、櫓上の高さ九尺の銅鯱一双は、領下百目木村の 豪農渡辺半右衛門が独力寄進せる所にして、竣功後の美観、壮観は関東北に冠たりと称せられしという」(『二本松市史』 第6巻所収・二本松市歴史資料館所蔵)とあり、座上家老・ 丹羽貴明の手腕により大手門が築造されたことが記されている。

さらに、大手門地割図が残されている(図2)。縦80cm×横90cm・着色された平面図で図右端に「昭和二十九年拾月十九日写 原図ハ三森丁松田彦治氏所有 七ノ丁六六 安斎憲助」と注記され、昭和29年(1954)10月19日安斎憲助によって写されたもので、原図面の所有者は代々二本松藩お抱え大工棟梁の家柄である松田家の末裔である。図面は、枡形に配された石垣を中心として塀、堀、橋の高さ・長さ・幅などが明記され、さらに町奉行屋敷や東西本陣などの敷地も記されている。

大手門地割図
(図2)大手門地割図

凡例注記の「六尺五寸ヲ以一間トス」から1間=195cmで、主な部分の寸法を換算すると、門台石垣である矢倉台は「高サ平地ヨリー丈五尺」=約4.9m、左右矢倉台の間隔は「五間半」=約10.7m、堀幅は「三丈六尺」と「三丈」があり、広い部分で約8.Om、堀に架かる橋の幅は「二間半」=約4.9mとなる。また、大手門前面に配置された東本陣と西本陣との間隔は「二十一間」、また「矢倉台続石垣ヨリ本陣角迄三十二間」等々、比較的多くの寸法が記されている。写しではあるが、基本的な各所の寸法が記されており貴重な資料である。

一方、大手門の姿=立面を描いた絵画及び古文書も2点確認されている。二本松藩お抱え絵師・大原文林(文化8年・ 1811~明治25年・1892)作といわれている縦69.0cm×横56.5cm・絹本・軸装・著色の「二本松城之図」(図3)である。 大手門を手前に配し、観音丘陵を経て、二本松城三の丸から本丸まで城内全体を鳥瞰した絵画で、重厚な大手門及び白壁の塀、石垣、堀などの様相を見事に描いている。ただし、城内の御殿などの建造物は描いてなく、大手門のみを意識した描写となっている。

二本松城の図
(図3)二本松城の図

もう1点は、「二本松城大手門図」(『二本松市史』第4巻所収「富田家文書」)である(図4)。素描的に描いたものであるが、大手門の様相は前出の絵画と大差がない。注記として「二本松外郭天保二卯年 坂下御門改大手御門新築丹羽長富君代 家老職丹羽久米助貴明代願成」とあり、さらに「大手ハ慶応四辰年七月廿九日落城為焦土」と記されていて、完成後わずか30数年後の慶応4年(1868)7月29日戊辰戦争により落城、兵火により焼失したことがわかる。なお、この文書は明治戊辰戦争以降に書かれたものと判断され、築造年代の天保2年は記憶違いの誤記であろう。

二本松城大手門図
(図4)二本松城大手門図

以上、大手門に関する史料・記録類は少ないものの、現存しているこれらに含まれている情報量は極めて多く、いずれも貴重な資料といえる。

石垣の特徴と様式

大手門跡石垣の主な残存部は、枡形に入る前面の部分、つまり堀に付随する石垣であり、入□右側から東方へ長さ約41m、左側から西方へ後世の改変部を除いて約25mほど残っている。

その特徴と様式について、『二本松城址Ⅰ』(平成2・3年度調査報告書)「第4章石垣」所収・北垣聰一郎氏の執筆内容を中心として記述する。

隅角部(角石・角脇石)とそれに接続する石垣(築石)は、いずれも精撤な加工石材を用いている。個々の石面はすべて化粧のため中央部にふくらみを与え、かつ「スダレ」と称する細かい縦線を施している。こうした技法は、少なくとも江戸城に観察できるように、明暦・万治年間(1655~1661)に定着していた。また、石材の加工処理は現場合せ(下段に配石した石材の左右、上端の形状に合せて石材の面どうしを撤密に接合させる「合端合せ」を行うこと。)に基づくもので区あることがわかる。

さらにまた、角脇石は角石より大きめの石材を一石で用いる箇所もある。しかも、角石、角脇石の石尻を「角欠け」にする部分も認められる。その理由は、築石となる石材が「亀甲積み」の一辺を欠いた「亀甲積み崩し」を採用した結果である。

このように、本石垣は「細工石工」の手法を導入した技法だといえよう。またノリとソリの関係からみても、江戸後半期のソリを強く意識した工法であることがうかがえる。

以上が主な記述内容であるが、本石垣の特記すべき重要な点は、築造された年代が現存資料から明確に特定できること、さらに石積み技法や石材の細工技法が二本松藩において伝統的に継承されてきた中で施工されたことが挙げられよう。

堀右側石垣
堀右側石垣

大手門右側門台石垣
大手門右側門台石垣

今後の保存・整備・活用について

大手門跡における保存は、冒頭に記したように残存している石垣のみが市史跡として指定し保護されてきた。また、現在までの当該区域の発掘調査については、平成14年3月の久保丁坂における下水道工事に伴う立会い調査(その結果、現在の地表面は当時の地表面から約1.5mほど嵩上げされ高くなっていることが確認されている。)だけであり、全体的な地下遺構等の残存状況は把握できていない。その最大の原因としては、公的機関施設をはじめ、多くの住宅が近接している密集地域になっていることにある。

しかし、国史跡の指定を受けたことから、二本松城の表玄関二顔として江戸後期から明治戊辰まで機能した大手門跡を将来的に保存・整備・活用していくことこそ、二本松城跡のそれと同レベルの最優先すべき課題といえる。

そのためには、当該区域における発掘調査の実施が最も不可欠な条件となる。この条件クリアーには、施設・住宅の移転、道路の付け替えなど周辺住民の理解と協力が最大限必要となるが、その実現手段の一つとしての考え方は大手門跡保存整備計画の立案と、地域まちづくりを中核とした土地区画 整備計画の立案であり、双方が整合性を持ちながら一体的に、推し進めることであろう。

大手門跡は、旧奥州道中筋・二本松城下町の中心であった本町に面した絶好の立地環境にある。将来的に、その立地を活かした大手門・石垣・堀など全体的な保存・整備を図ることは、市街地におけるポケットパーク的な役割を担うとともに、地域活性化の起爆剤としての価値を大いに秘めているといえる。

枡形入口左側石垣
大手門右側門台石垣

二本松城大手門跡石垣
二本松城大手門跡石垣

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