二本松藩丹羽家

丹羽家の江戸屋敷について

江戸城内で諸大名が控える部屋=詰所には家格の高い順に8ランクあり、丹羽家は島津・伊達・細川家らと同席できるナンバー2の「大広間」詰め。戦国時代に 123万石の筆頭大名であった格式を幕府が認めていたが故のことだった。上屋敷は、明暦の大火(1657)前が桜田、後は永田町といずれも江戸城に近接したエリアに位置。永田町上屋敷跡地は、現在の総理官邸敷地内に及ぶ。

大名屋敷

江戸時代、江戸に参勤する大名のために与えられた武家屋敷・宅地をいう。江戸が天下の総城下町として発展するにつれて拡大された。明暦3年(1657)、 明暦の大火による500余の大名屋敷が焼失後、避難場所として下屋敷が設けれられたため、各大名は本邸の上屋敷のほかに中屋敷・下屋敷として2ないし5の 屋敷を有するようになる。その中で中・下屋敷は府内から外縁へと次第に移された。その配置なども幕藩体制支配を示すようになっていた。

丹羽家の江戸屋敷

明暦の大火前 ・・・・・ 上屋敷 桜田
    蔵屋敷 八町堀
明暦の大火後 ・・・・・ 上屋敷 永田町
    下屋敷 青山長者丸
    蔵屋敷 八町堀

 
二本松藩主・丹羽家家紋
直違紋(すじかいもん)
(通称:違い棒)
 
光重公自画自賛肖像

丹羽二本松藩の領域について

丹羽二本松藩10万700石の領域は、城下6町+安達郡一円69ヶ村+安積郡41ヶ村。現在の二本松市全域+安達郡全町村+郡山市3分の2、そして猪苗代湖の一部を含む広範囲に及んでいた。
全国大名石高ランクでみると、260有藩の内、10万石以下は約80%の210数藩あり、決して下位の藩でなく、むしろ上位の藩といえる。

寛永20年(1643)7月→天保4年(1833)1月

※城下町6町+110ヶ村

[片平組]
11ヶ村
/ 片平村・河内村・夏出村・長橋村・富田村・早稲原村・堀内村・前田沢村・安子島村・上伊豆島村・下伊豆島村
[郡山村]
14ヶ村
/ 郡山村・小原田村・日出山村・笹川村・久保田村・福原村・日和田村・高倉村・八丁目村・梅沢村・八山田村・横塚村・笹原村・荒井村
[大槻組]
16ヶ村 
/ 大槻村・多田野村・山口村・大谷村・八幡村・駒屋村・川田村・成田村・鍋山村・富田村・下守屋村・浜路村・横沢村・舘村・船津村・安佐野村

天保4年(1833)2月→明治元年(1868)8月

※城下町6町+110ヶ村

藩領地図

江戸城大絵図(二本松市歴史資料館所蔵)

文政11年(1828)、江戸日本橋の書林(書店)須原屋から出版された切絵図で、各大名の上屋敷・中屋敷・下屋敷や旗本屋敷、寺院・神社、町屋など江戸市中が克明に描かれている。
丹羽家の上屋敷は外堀の中、江戸城に近接した永田町地内に与えられ、その格式が高かったことを物語っている。
現在の場所でいうと、発掘調査結果から総理官邸敷地内に入り込んでいたことがあきらかになっている。

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◆旧総理官邸斜め向かいの歩道に下記標注がある。
茱萸坂: この坂を茱萸坂(ぐみざか)という。またの名を番付坂ともいう。「新編江戸志」には丹羽家の裏門から見通すことができ、内藤紀伊守(ないとうきいのかみ)、本多伊勢守(ほんだいせのかみ)の間をぬけて九鬼長門守(くきながとのかみ)の屋敷前へ出る小坂で“両側にぐみの木ありし故の名なり”とかかれている。また「東京名所図会」には、“番付坂・茱萸坂の一名にして昔時山王(せきじさんのう)(日枝(ひえ)神社)の祭礼には必ず此の所に花車の番付札ありて、其行列をあらためしよりいう”とかかれている。

丹羽家の格式(家柄・身分)について

丹羽二本松藩の石高ランク

※大名(藩)石高別内訳[慶応2年時]
石高 藩数 割合(%) 備考
1~5万石
166
62
5~10万石
46
17
10~20万石
32
12
二本松藩10万700石
20~50万石
15
7
50万石以上
7
2
266
100

丹羽家の江戸城中大名詰所

※丹羽→大広間詰め[慶応3年時]
ランク 詰所名 主な大名
1
大廊下(おおろうか)
上席:御三家(水戸・紀州・尾張)・御三卿
下席:金沢前田102.2万石・福岡黒田52万石など
2
大広間(おおひろま)
鹿児島島津77万石・仙台伊達62.5万石
・熊本細川54万石・丹羽家10万石など
3
溜間(たまりのま)
会津松平23万石・彦根井伊23万石など

4

帝鑑間(ていかんのま)
5
柳間(やなぎのま)
6
雁間(がんのま)
7
菊間(きくのま)
8
無席

 

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