市民の憩いの場、また通年観光地として親しまれている県立霞ヶ城公園は、遠く室町時代から江戸時代終焉まで400有余年の長きにわたり営まれた「二本松城址」。三方が丘陵で囲まれた"馬蹄型城郭"で、自然地形を巧みに利活用した要塞堅固な名城であった。幾百星霜を経た今日でも、各所に往時の姿が偲ばれる貴 重な史跡・名勝・天然記念物が数多く点在している。
県立霞ヶ城公園絵図
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二本松城大手門跡
二本松城主・城代等の変遷
| 領主 | 区別 | 氏名 | 在職期間 | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 畠山 | 城主 | 満泰・(満盛) |
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| 持重・政国 | |||||||
| 村国・家泰 | |||||||
| 義氏・義国 | |||||||
| 義継・義綱 | |||||||
| 伊達政宗 | 城主 | 片倉景綱 | 天正14年(1586)7月~同14年(1586)9月 | ||||
| 城主 | 伊達成実 | 天正14年(1586)9月~同18年(1590)6月 | |||||
| 城代 | 石母田景頼 | 天正18年(1590)6月 | |||||
| 城代 | 大篠宗綱 | ~ | |||||
| 城代 | 柴田宗義 | 同18年(1590)8月 | |||||
| 蒲生氏郷 | 城代 | 蒲生郷成 |
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| 城代 | 町野繁仍 | ||||||
| 城代 | 町野幸和 | ||||||
| 上杉景勝 | 城代 | 秋山定綱 |
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| 城代 | 下條定親 | ||||||
| 蒲生秀行 蒲生忠郷 |
城代 | 梅原弥左衛門 |
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| 城代 | 本山安政 | ||||||
| 城代 | 本山安行 | ||||||
| 城代 | 外池良重 | ||||||
| 城代 | 門屋助右衛門 | ||||||
| 城代 | 門屋但馬守 | ||||||
| <幕府領> | 在番 | 酒井右近太夫 |
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| 在番 | 太田原晴清 | ||||||
| 加藤嘉明 加藤明成 |
城主 | 松下重綱 | 寛永4年(1627)2月~同4年(1627)10月 | ||||
| 城主 | 松下長綱 | 寛永4年(1627)10月~同5年(1628)5月 | |||||
| 城主 | 加藤明利 | 寛永5年(1628)5月~同18年(1641)3月 | |||||
| 代官支配 | 寛永18年(1641)3月~同20年(1643)5月 | ||||||
| <幕府領> | 在番 | 相馬義胤 | 寛永20年(1643)5月~同20年(1643)8月 | ||||
| 丹羽 | 城主 | ![]() 丹羽光重 (にわみつしげ) |
寛永20年(1643)8月~延宝7年(1679)4月 | ||||
| 城主 | ![]() 丹羽長次 (にわながつぐ) |
延宝7年(1679)4月~元禄11年(1698)6月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽長之 (にわながゆき) |
元禄11年(1698)8月~同13年(1700)12月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽秀延 (にわひでのぶ) |
元禄14年(1701)2月~享保13年(1728)5月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽高寛 (にわたかひろ) |
享保13年(1728)6月~延享2年(1745)5月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽高庸 (にわたかつね) |
延享2年(1745)5月~明和2年(1765)12月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽長貴 (にわながよし) |
明和3年(1766)1月~寛政8年(1796)3月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽長祥 (にわながあきら) |
寛政8年(1796)5月~文化10年(1813)8月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽長富 (にわながとみ) |
文化10年(1813)10月~安政5年(1858)10月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽長国 (にわながくに) |
安政5年(1858)10月~明治1年(1868)12月 | |||||
| 城主 | ![]() 丹羽長裕 (にわながひろ) |
明治1年(1868)12月~明治4年(1871)7月 | |||||


藩士の戒めとするため、5代藩主高寛(たかひろ)公が藩儒学者岩井田昨非(さくひ)に命じて、通用門前の自然石に寛延(かんえん)2年(1749)刻ませた4句16文字の銘文。教育資料としてまた行政の規範として価値が高く評価され、昭和10年(1935)に国史跡に指定。
初代藩主丹羽光重公入府まもなく、城内整備のため御殿と共に最初に建造した櫓(やぐら)門。材料のカシの巨木は領内箕輪村山王寺山の御神木を用いたため、この名がある。
光重公時代の造園の姿を今に残す。小規模な回遊式庭園ながら、自然との一体感をかもし出している。
別称「八千代(やちよ)の松」ともいわれるアカマツの巨木で、樹齢350年を越す。1本の幹から三方に枝を伸ばした独自の形状は見事。
城址内に唯一残る江戸期の建造物で、木造カヤ葺き・寄棟平屋造りの茶亭。当時は「墨絵の御茶屋」といい、光重公がこよなく愛した。一時場外への移築により戊辰戦火を逃れ、明治40年(1907)に再移築。上方の洗心滝に感じ入った丹羽家16代当主が改称。
旧会達製糸会社の社歌を作詞した晩翠は、昭和24年に発表会のため来松。
高村光太郎直筆「樹下の二人」「あどけない話」の一節を、伝説が残る大小一対の「牛石」に銅板ではめ込んでいる。周辺の円形野外劇場のイメージは詩人草野心平の発案。
明治100年の昭和43年(1968)命名。橋本堅太郎氏の父・彫刻家橋本高昇制作のブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」や顕彰碑「二本松大壇口弔少年隊戦死墓」などが立つ。
光重公入府まもなく、城防備を目的に安達太良山麓より延々約18キロもの距離を城内各所に引水した用水。幕府へは内密だった。のち各村に灌漑用水として、城下町には生活・防水用として利活用。
室町時代は奥州探題(おうしゅうたんだい)職・畠山氏の居城。のち会津領時代に蒲生氏、加藤氏により石垣で築造、天守台は造られたが天守閣はできなかった。平成5年から総工費約5億3千万、2年かけ石垣の全面修築復元工事を完成。
裏門、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残る。畠山氏あるいは蒲生氏時代の堀立柱による冠木門(かぶきもん)の柱穴も発掘調査で発見。
千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に日本の三井といわれる。









